青い空 aoisora kiyokku@globallink21.com

障害

目に見えない障害がある。心の中の病。
目に見える障害がある。耳が聞こえないとか、腕がないとか。
これを障害と思われているのではないだろうか。
そして健常者と言われている人が、普通と思われているのではないだろうか。

障害って何だろうか。普通って何だろうか。
一体何が普通で、何が普通じゃないんだろうか。

先日、マトリックスという映画を見た。マトリックスとは、「鋳型」というそうだ。
形をつくるための型であり、その型にはめれば、同じ形のものがいくつも作られる。

その誰かがつくった「鋳型」が普通であり、「鋳型」に、はまった者が普通と認識される。
誰かってだれか?社会とか、通念とか、おおかたとか。疑問に思わなければ過ぎていってしまうものかもしれない。誰が「鋳型」という枠をつくったのだろうか。なんでその枠が普通なのだろうか。きっと、「大体の人がそうだから」という答えになるのであろう。

そして「鋳型」に、はまらない部分を障害と認識しているのではないだろうか。
悲しいことに、普通であると認識される「鋳型」に、はまった者だけを考えていろいろなものが作り上げられてきた。あてはまらない部分をもつ者にとって、「鋳型」にはまった普通は障害となってしまう。
たとえば「鋳型」に、はまった者にとって階段は上れるもの。だからそれは普通。
「鋳型」に、はまらない部分をもつ者、つまり階段が自力で上れない者は普通ではなく、障害をもつ者と認識される。

しかし、普通という「鋳型」は存在せず、一人一人のそのままの状態が普通であると私は思う。
だから、いろいろなものは、たくさんの人のことを考えて作られるべきである。

福祉は、「鋳型」に目に見えて、はまらない部分、それは障害である。というレッテルをはってしまいがちなのではないだろうか。なぜなら、福祉自体がそのあてはまらない部分を保護しているからである。
でも、障害はいろんな形で誰にでもあるのではないだろうか。人とあまり話せないとか、人を信じられないとか、髪の毛が薄いとか、体がかたいとか。生活に支障をきたさない程度であっても、心の障害も障害と言えば障害である。

にもかかわらず、目に見えて普通という「鋳型」に、あてはまらない部分をもつ者を、障害者という新しい枠にあてはめてしまっているのではないだろうか。決して福祉の関係に働いていらっしゃる方がわるいと言いたいわけではありません。

「自分はどうせ障害者だから」と、ひきこもらせてしまうのは、誰かがつくった普通という「鋳型」のせいなのではないでしょうか。

01.1.17


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